大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 平成9年(ワ)7412号 判決

原告

甲野花子

右訴訟代理人弁護士

石井成一

小田木毅

岡田理樹

竹内淳

穂高弥生子

被告

乙山太郎

右訴訟代理人弁護士

山下洋一郎

金子宰慶

主文

一  被告は、原告に対し、金一六六二万五一〇六円及び内金一五一二万五一〇六円に対する平成二年三月一七日から内金一五〇万円に対する平成九年四月二六日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告のその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、これを四分し、その三を原告の負担とし、その余を被告の負担とする。

四  この判決は、原告勝訴部分に限り、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一  請求

被告は、原告に対し、金七〇〇九万〇七五五円及び内金六三七一万八八六九円については平成二年三月一七日から、内金六三七万一八八六円については平成九年四月二六日から、それぞれ支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

一  事案の要旨

原告は、整形外科医院を開業している被告から、肩こりの診療行為として前斜角筋に局所麻酔薬であるキシロカイン溶液の注射を受けたところ、ショック症状を起こし、その後、右上下肢の筋力低下・握力低下、歩行障害、顔面を含む右半身の知覚鈍麻の各症状が生じて、これらが後遺したが、これは、被告の診療行為(キシロカイン溶液の注射)に、治療方法の選択または注射の技法の誤りがあったためである旨主張し、被告に対し、不法行為または債務不履行に基づき、右注射行為によって生じた損害のうち、後遺症による逸失利益、慰藉料及び弁護士費用に関する損害賠償を請求(逸失利益及び慰藉料については、右注射の日の翌日から、弁護士費用については、本件訴状送達の日の翌日から支払済みまで、民法所定の年五分の割合による遅延損害金も請求)するものである。

二  争いのない事実等(証拠を掲げていない事実は争いがない。)

1  当事者

原告は、昭和二六年一月二三日生まれの女性であり、昭和四二年三月に美容学校を卒業した後、美容師として就労していた(甲九)。原告には、公務員(警視庁警察官)である夫(昭和四八年三月五日婚姻)、長女(昭和五一年一月二九日生)、長男(昭和五三年六月三日生)がいる(甲九)。原告の美容師としての勤務は、結婚、出産を機に中断したが、子供に手がかからなくなった昭和六三年ころから徐々に復帰し、平成元年一一月からは完全に復帰していた(甲九、原告本人)。

被告は、医師であり、住所地において整形外科医院「乙山整形外科」(以下「被告医院」という。)を開業している。

2  診療契約の締結

原告は、平成二年三月一六日、靭帯断裂の治療(リハビリ)のために被告医院に通院していた小学校五年生の長男に付き添い同医院に来院したが、当時、肩こりに悩まされていたことから、長男のリハビリの待ち時間を利用して、被告の診察を受けることを考え、右同日、被告に対し、上背部から後頚部にかけての肩こりの診察と治療を依頼し、被告はこれを承諾した。

3  被告の診療行為としての注射とショック症状の惹起

被告は、平成二年三月一六日、原告を診察し、原告の肩こりの原因として胸郭出口症候群のうち前斜角筋症候群を疑い、その治療として、原告の頸部に、一パーセントキシロカイン溶液五ミリリットル(以下「本件麻酔剤」という。)を浸潤注射した(以下「本件注射」という。)ところ、原告はショック症状を起こし(以下「本件ショック症状」という。)、同日から同年五月一七日まで、被告医院に入院した。

三  争点

1  原告の後遺障害の有無及びこれがある場合のその内容・程度、並びに本件注射との因果関係の有無

(原告の主張)

被告は、本件注射を行う際、注射針の刺入場所を間違え、もしくは注射針を必要以上に奥深く刺入し、またはその双方を発生させたことにより、本件麻酔剤が原告の血管(椎骨動脈等)、硬膜外腔またはくも膜下腔に侵入し、よって、原告に局所麻酔中毒、硬膜外ブロック、くも膜下腔ブロックの全部またはこれらのいずれかの合併症を生じさせ、①右上下肢の筋力低下・握力低下、②歩行障害、③顔面を含む右半身の知覚鈍麻の各症状(以下、これらを合わせて「原告主張症状」という。)を生じさせ、右症状は、平成五年五月一八日、固定した。原告は、身体障害者手帳(身体障害者等級表による級別二級)の交付を受けている。

原告は、平成二年三月一六日から同年五月一七日まで被告医院に入院した。その間、原告には、四肢の脱力感、筋力低下、歩行困難、右半身のしびれ(知覚異常)、めまい、頭痛、右中心視力低下(自覚症状としては、視界に黒色の斑点が現れ、かつ視界に膜がかかった状態)の症状が生じたが、これらの症状は、本件注射前には全く発現していなかった。

平成三年ころ、原告には、関節痛(顎、両肩、肘、両手首、両手指、背部、両膝、股関節及び右足首)、乳癌が生じたが、現在において、原告に認められる症状は、右上下肢の筋力低下・握力低下、歩行障害、顔面を含む右半身の知覚鈍麻、上下肢の可動域制限(両上下肢を水平に挙げることができない。)、両手掌、手背、両膝、右足関節部の痛みであり、右各症状のうち、原告主張症状は、本件注射後被告医院退院までの間に発現し、現在まで継続しているものであり、従って、右症状については、本件注射がその原因となっていることが強く推認される。

被告は、原告の現在の症状はリューマチによるものである旨主張するが、原告にリューマチ症状が発現したのは、早くても平成三年四月以降のことであるところ、原告主張症状は、本件注射後現在に至るまで継続して認められるものである。また、本件訴訟で証人となった医師近藤達也(以下「近藤医師」または「証人近藤」という。)も、原告主張症状は、リューマチが原因であるとは考えられない旨明確に証言している。

被告は、また、原告主張症状は心因性のものである旨主張するが、これは単なる憶測である。被告は、他の医師の診断をして自己の憶測を根拠づけようとしているが、船橋市立医療センター(以下「船橋医療センター」という。)の見解は、同センターが受診時にみられたと思われる過呼吸症候群の原因としてヒステリーが考えられるとしているにとどまり、原告主張症状に関しては、実質的には何らの検査も診断もしていない。また、千葉大学医学部付属病院(以下「千葉大病院」という。)及び東京警察病院多摩分院(以下「多摩分院」という。)の各見解も、心因性について何ら実質的な検査等を実施しておらず、ただ、器質的な原因が発見できなかったことをもって、精神病的反応または心身症を疑っているに過ぎない。しかも、各病院においては、器質的な原因について検査を行ったといっても、頸椎部分のMRI検査等の精密検査を実施した上で判断した形跡は見られない。国立習志野病院(以下「習志野病院」という。)及び習志野第一病院においてはMRI検査が実施されているが、これらは専ら頭蓋内の病変の有無を調べるために実施されたに過ぎないことは明らかであり(乙八)、習志野病院の細井医師によって、さらに下部頸髄から腰骨髄のMRI検査が勧められていたにもかかわらず(乙八)、またその後原告から依頼があったにもかかわらず、被告は同検査を実施せず、また他のどの病院においても、同検査は実施されなかった(甲九)。

(被告の主張)

原告主張症状は、心身症(転換ヒステリー)とリウマチによるものであって、本件注射との因果関係はない。

原告は、本件注射後、近藤医師の診察を受けているが、他にも複数の医師の診察を受けており、その中で、船橋医療センター医師服部孝道(以下「服部医師」という。)は原告を過呼吸症候群と(乙一四)、千葉大病院医師新井公人(以下「新井医師」という。)は精神病的反応と(乙一五)、多摩分院医師藤本彰(以下「藤本医師」という。)は明確に心身症と(乙一七)診断している。

近藤医師は、MRI検査でC二からC三、C五からC六の脊椎に変性がみられると指摘しているが、他方で、これが初期の肩こりの原因としては理解できても、現在の症状の説を可能にできるものではないと証言し、また、この変性がキシロカインによってもたらされたものか否かについては、わからないと答えている。

また、近藤医師は、原告にロンベルグ兆候が認められた旨指摘しているが、ロンベルグテストは精確性に問題のあるもので、特にヒステリーの患者や極めて神経質な人ではこのテストが陽性と出ることがある(乙二二、二三)。近藤医師は、咽頭または燕下反射、フーバー兆候についての検査が、ヒステリーの有無、片麻痺の検査に有用であるにも拘わらず、これらの検査を行っていない。

本件注射から二ヶ月後の平成二年五月一七日からの多摩分院の入院記録(乙一六)には、「上肢、手指ともに分離運動が可能であり、麻痺の影響はないものとおもわれる。…転換ヒステリー要素が強いと判断され心理的な要素が強いのではないかと思われます。訓練中においてもトランスファー時において患側を使ったり使わなかったり、キャッチボール時においては最初のころ患側も使っているが、すぐに使わなくなるなどの行動が見られます。」と記載されている。

2  本件注射行為に関する過失の有無

(原告の主張)

(一) 治療方法の選択に関する過失

被告は、原告が肩こり及び首のつけねの痛みという症状を訴えたことに対して、整形外科医として適切な診断を行い、かつ、原告に対して、治療効果及び安全性等の点を総合的に勘案して最も適切な治療方法を選択しなければならばい注意義務があったにもかかわらず、同注意義務を怠り、原告の右症状について、「胸郭出口症候群中の前斜角筋症候群の疑いがある。」との誤った診断を行い、かつ、治療効果及び安全性の点などに問題があるキシロカインの前斜角筋への浸潤注射(被告のいう「前斜角筋ブロック」)という治療方法を選択した過失がある。

(1) 胸郭出口症候群中の前斜角筋症候群の疑いとの診断の誤り

被告は、原告の症状について、胸郭出口症候群中の前斜角筋症候群を疑い、本件注射を行っているが、そもそも、原告の症状としては右症候群ではなく、肩井症候群を疑うべきであったのであり、肩井症候群を疑っていれば、危険な部位である前斜角筋に本件注射を行うことはなかった。

胸郭出口症候群の症状は、まず、手指、前腕、時には肩に至る異常知覚、痛み、しびれ感であり、また前斜角筋症候群の典型的症状は上肢への放散痛であって、肩凝りは胸郭出口症候群の症状の一つであって典型的症状ではないところ(乙二)、原告が訴えた症状は、肩こりとその後首の方まで広がった痛みであって、胸郭出口症候群の典型的症状とされるものは一切みられなかった。原告の本件注射時の主な症状は、肩こり(項部痛)でしかなく、肩井症候群を疑うべきであった(乙二)。

(2) 治療方法として本件注射を選択したこと自体の誤り

前斜角筋ブロックなる治療方法は、ペインクリニックにおいて使用される治療方法としては一般的ではなく、有用な治療方法でも、鑑別診断に役立つ方法でもない。

前斜角筋ブロックの対象部位である頸部前部付近は、頸椎に近く、また多くの神経叢、動脈、静脈が集中している危険な部位であり、注射針をほんの少し深めに刺入しただけでも、それが血管や神経に触れ、さらには椎間孔を通過して、硬膜外腔もしくはくも膜下腔に到達する可能性が極めて高く、注射に使用された局所麻酔剤自体が、血管内や神経内に侵入することで、また、直接血管内や神経内に侵入しなくても、アナフィラキシーショックのような重篤なショック症状を発生させる、極めて危険なものである。

原告は被告の診療を受けるのは初めてであったこと、原告は従前、自己の症状に対して保存療法(頸部の固定、肩すくめによる肩甲帯挙上体操、腕立て伏せ等の筋力増強訓練及び肩甲骨装具を用いた姿勢の矯正等)すら受けていなかったこと、原告の主訴は「肩こり」に過ぎなかったことを合わせ考えると、当時被告は原告に対して、敢えて前記危険を冒して前斜角筋ブロックを選択するような状況にはなく、まずは保存療法を試みるべきであったのであり、原告に対して前斜角筋ブロックなる注射を実施したこと自体に重大な過失があったといえる。

(二) 注射の技法に関する過失

被告は本件注射をするにあたって、注射部位が存する前斜角筋周辺は、頸神経叢、交感神経の神経節、動脈及び静脈などが集中している危険な部位であることに鑑み、注射部位を正確に特定し、かつ、注射針が血管もしくは神経に触れ、または椎間孔に達するなどして、本件麻酔薬であるキシロカインが血管内、硬膜外腔またはくも膜下腔などに侵入することのないよう、細心の注意を払うべき注意義務があったにもかかわらずこれを怠り、本件麻酔剤を原告の血管(椎骨動脈等)、硬膜外腔またはくも膜下腔の少なくともいずれかに侵入させた過失がある。

(被告の主張)

(一) 治療方法の選択に関する過失について

(1) 胸郭出口症候群中の前斜角筋症候群を疑ったことについて

原告の症状についての胸郭出口症候群中の前斜角筋症候群の疑いとの診断は相当であった。多摩分院の藤本医師も原告の症状を胸郭出口症候群と診断している。

原告は、被告の問診に対し、項部の痛みが一年くらい前からあり、特に原因となるできごとはない、自宅の近くの医療機関で治療を受けていたが軽快しない、仕事は美容師をやっている、既往歴としては出産後に遊走腎になったことがあると答えた。

被告が、触診等の検査をしたところ、項部痛があり、頚部の運動時に痛みを認め、頭部圧迫テスト、スパークリングテスト、ジャクソンテストは陰性であったが、アドソンテスト及びモーレーテストは左右ともに陽性であり、腱反射、知覚には著変は認められなかった。頸椎について二方向のエックス線撮影をしたところ、第五、第六頸椎椎間孔に軽度の狭窄が認められた。

被告は、右問診と検査の結果から、原告の症状について、胸郭出口症候群中の前斜角筋症候群を疑った。

(2) 治療方法として本件注射を選択したことについて

被告は、原告の症状に対する処置として、ペインクリニックの一療法として確立されている前斜角筋ブロックを選択した。前斜角筋ブロックは、前斜角筋の筋腹に麻酔剤(一パーセントキシロカイン溶液)五ミリリットルを浸潤注射する療法である。被告が、原告の症状について疑った前斜角筋症候群は、異常な運動、姿勢、ストレス、外傷、頸椎症、椎間板疾患等を誘因とし、前斜角筋の圧迫により生じるものであるが、前斜角筋ブロックは、筋腹に入った麻酔剤の影響で前斜角筋の緊張を解放し、さらに神経への圧迫を解放することによって、痛み、しびれを軽快させる。麻酔剤の作用時間自体は短いが、この療法によって、循環、代謝の改善が得られ、臨床的には一回の注射でほぼ完全に軽快する症例もある。また、この注射は、他の疾患との識別にも役立つ。近藤医師も、この療法自体は否定していない。

(二) 注射の技法について

被告は、前斜角筋ブロックの実施に当たり、原告に対し、歯科医等で麻酔注射を受けたときに気分が悪くなったことがないことを確認した。

被告は、血液の逆流がないこと、つまり注射針が血管に触れていないことを確認してから注入しており、薬液が血管内に注入されたことは考えられない。

本件注射時、原告からは痛みの訴えはなかった。薬液は、徐々に注入するが、その間原告から、注入を中断するような、あるいは中断しなければならないような訴えや異常はなかったのであり、注射針が神経に触れたということはない。

椎間孔は、椎骨と椎骨との間の空間であり、横突孔のような穴ではない。椎間孔は正面を向いておらず、斜め下を向いており、前斜角筋ブロック時に注射針を椎間孔に入れるためには、一旦垂直に入れた針を横にずらして刺入しなければならないのであって、本件注射において注射針が椎間孔内に侵入したことは考えられない。したがって、本件麻酔薬が、血管、硬膜外腔、くも膜下腔に侵入したことはない。

原告に生じたショック症状は、アナフィラキシーショックである。事前にこれを避ける方法はない。被告は、本件麻酔剤によるショックがあり得ることを考え、本件注射後、原告の状態を数分間観察し、特に異常のないことを確認してから、原告の身体を起こし、待合室に移動させた。原告にショック症状が生じた後は、直ちに適切な処置をとっており、これによりショック症状は程なく改善した。

3  原告が被った損害の有無及びその程度

(原告が請求する損害額)

(一) 逸失利益 四一七一万八八六九円

原告は、原告主張症状が後遺し(後遺障害等級二級相当)、労働能力を一〇〇パーセント喪失した。

原告の本件医療事故時の年齢は三九歳、就労可能年齢は六七歳であるから、原告の就労可能年数は二八年であった。平成二年度の賃金センサス第一巻第一表の企業規模計学歴計の女子労働者全年齢平均賃金額は二八〇万〇三〇〇円であり、これに労働能力喪失率一〇〇パーセントを乗じ、さらに就労可能年数である二八年に対応するライプニッツ係数14.898を乗じて中間利息を控除すると頭書金額となる。

280万0300円×1×14.898=4171万8869円

(二) 後遺症慰藉料 二二〇〇万円

(三) 弁護士費用 六三七万一八八六円

(被告の主張)

いずれも争う。

第三  争点に対する判断

一  争点1(原告の後遺障害の有無及びこれがある場合のその内容・程度、並びに本件注射との因果関係の有無)について

1  原告の後遺障害の有無及びある場合のその内容について

(一) 第二の二の争いのない事実等、甲四、六、七号証、九号証から一一号証まで、乙一、三、八、一〇、一一号証、一六号証から一九号証まで、二一号証、原・被告各本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、次の事実を認めることができる。甲九号証、乙二一号証及び被告本人尋問の結果のうち、右認定に反する部分は、他の右各証拠に照らして採用できない。

(1) 本件注射前の身体及び生活の状況

原告が、被告医院を受診したとき、原告には、原告が被告に訴えた肩の痛み、肩こりの症状があったが、顔貌、意識、言語、四肢諸動作には特に異常はなく、特に頸椎の変形、運動制限、四肢の筋萎縮、筋力低下、知覚、反射異常は認められなかった。

原告は、右受診当時、日常生活においては家事を行うと共に、美容師として自宅付近の美容院に勤務していた。また、一年位前に自宅近くにある八幡整形外科で肩こりについて患部を温め、マッサージを施す等の治療を受けてから、肩こりについて医師の治療を受けておらず、原告が被告の診療を受けたのも、それを目的に被告医院を訪れたわけではなく、長男のリハビリの待ち時間を利用して便宜被告の診察を受けたにすぎなかった。

(2) 本件注射の実施及び本件ショックに対する処置

原告の診察時の主訴は、項部痛であった(なお、初診時の諸検査実施結果等の詳細は、後記二1(一)のとおり)ところ、被告は、原告の肩の痛み、肩こりの原因について、胸郭出口症候群中の前斜角筋症候群を疑い、初診日に直ちに、その治療方法として本件注射を実施した。

被告は、原告をベッドに仰向けに寝させ、看護婦に介助させて原告の右前斜角筋を触知して確認し、その筋腹の鎖骨から約二センチメートル上方の位置に本件注射を行った。原告は、本件注射の刺入時、痛みを感じたが、右痛みが上肢に放散するまでのことはなく、本件注射が行われた。

被告は、本件注射後、原告の状態を観察し、特に異常がないことを確認した後、待合室に移動させようとしたところ、原告は、三、四メートル歩行した時点で、気分不快と呼吸困難を訴え、歩行困難となった。そして、原告は、血圧が低下し、一時は最高血圧が七〇、最低血圧が六〇となり、脈拍も一分間九〇の頻脈となり、戦慄が生じた(本件ショック症状)。しかし、チアノーゼはなく、両肺野の呼吸音の聴取は可能、心音は清で、意識障害はなかった。

被告は、直ちに、原告の血管確保を行い、本件ショック症状に対する処置として、ハルトマン五〇〇ミリリットルとソルコーテフ一〇〇ミリグラムの点滴、ボスミン二分の一アンプルの筋注、セルシン二分の一アンプルの点滴注をし、同時に酸素を毎分八リットル投与した。その結果、本件ショック症状はまもなく改善した。

(3) 被告医院における入院経過及び入院中の症状等

本件注射の日(三月一六日)の午後八時、原告は、ストレッチャーで二階病室に担送され、ベッドに寝かされた。この時、原告は、全身に脱力感を覚え、会話を十分にすることができない状態であったが、血圧は、最高が一二四、最低が六〇にまで回復していた。

右同日午後九時、原告の夫が被告医院に来院し、看護婦が原告にその旨を告げ、合わせて夫と共に帰宅できる旨を告げたが、原告はそのまま入院し、経過を観察するところとなった。なお、原告の夫が来院した時には、原告の身体の状態は、ゆっくりではあるが便所まで歩行することができる程度にまで回復した。

原告は、平成二年三月一六日から同年五月一七日まで、被告医院に入院したが、この間、反射異常は認められないものの、初期には、頭重感、全身の倦怠感、脱力感が顕著にみられた。痛みや、しびれ感等の知覚異常については、平成二年三月二三日ころから両大腿から足趾にかけてしびれ感が発現し、その後、両下肢痛が顕著に生じた。平成二年三月二八日には、右手第四、第五指にしびれ感が生じ、翌日には、同しびれ感がこわばり感に変わったりした。その後、右手指のしびれ感が発現したり、右肩から右上肢にかけてのしびれ感、両臀部下方から大腿部にかけての痛みが顕著となった。

身体運動については、入院当時より、起立、歩行に筋力低下による制限があり、ゆっくりと便所までの往復歩行を行うことができるものの、主には車椅子を使っていたところ、入院中の四月六日からは、起立、歩行訓練、腕挙上訓練等のリハビリを始め、徐々に回復に向かっていた。ところが、同年四月一七日ころからは、右半身の全体的なしびれ感と右上下肢の疼痛が顕著に発現し、特に、右足に力が入らないため、前に出すことができず、再び歩行困難に陥った。また、同月一六日には、右目視野に黒斑点が発現する視覚異常が生じ、それが継続したことから、原告は、同月二八日、被告の紹介で入江眼科医院を受診したが、同医院では、中心部(斑点に対応する部位)の視覚障害が主訴とされるものの、硝子体中及び網膜には病変が認められず、原告は同医院の医師から、症状は精神的なものからきており回復は不可能と告げられた。

原告は、前記リハビリの結果、退院時には、手すりを利用しながら自力で階段昇降を行えるようになったが、介助なしに日常生活を行える程度の回復は認められなかった。なお、被告医院入院中、握力検査が行われたが、その結果は左記のとおりであった。

右    左

平成二年三月一九日

一一キロ 一一キロ

二六日 三二キロ 二五キロ

四月 一日 一〇キロ 一一キロ

五月 九日 一〇キロ 一六キロ

一五日  七キロ 一七キロ

(4) 多摩分院への転院と入院中の症状等

原告は、平成二年五月一七日、被告医院を退院し、同日、多摩分院を受診した。原告は、多摩分院初診時、右半身筋力低下、右半身知覚鈍麻、歩行困難を訴え、実際、引きずり歩行、立位不安定が認められたため、精査、リハビリ目的で即日入院となった。

多摩分院においては、同院藤本医師に対して、「肩関節の屈曲、外転、外旋の最終域において痛みを訴える、異常感覚が患側(右側)の上肢、下肢にあり特に手指のジンジンとしたしびれ感が強い、最近はこのしびれ感が熱感に変わってきている、筋力は、患側(右側)上肢近位筋四+、遠位筋四+、握力は右五キロから五キロ、左一八キロから一九キロ、簡易上肢能力テスト、右73.3%、左99.0%、患側の筋力、巧緻性の低下を認める、歩行能力的には改善されてきているが、上肢の機能は今のところそれほど改善されていない状態である、現在の機能のアップを目標に支持的に接しながら訓練を行っていきたいと思う、予後などについては現在のところ判断がつかない状態であり、経過をみながら判断したい」との報告がなされ、リハビリ治療が重点的に行われた。その結果、原告は、遅くとも退院時には、基本動作としては、起き上がり、膝歩き、床からの立ち上がりが可能(但し、右下肢の振出しは、上肢で介助している。)であって、家庭生活は可能なレベルと評価され、歩行についても、毎日行われる歩行訓練により、少しずつ歩行距離を伸ばしていき、最終的には足首の動揺を固定するための装具(「プロフッター」)を装着し、杖をつけば、屋外でゆっくりではあるが数百メートル位を歩行することができるようになった。そして、原告は、それ以上治療効果の改善は見込めなかったことから、平成二年七月二一日、多摩分院を退院し、医師の指示によって、専ら自宅でのリハビリと療養をすることになった。

原告は、自宅に戻ってからは、午前中三〇分くらい、掃除機をかけたり、洗濯をしたりし、夕方一時間くらいは夕食の支度をしたり、また、気分のよいときには自宅から四〇メートル位離れたところにある公園に行ったりして過ごしたが、その程度で疲れ切ってしまうため、そのほかは座椅子やソファーベッドに座っているか、寝ているかという状態で過ごした。なお、原告は、このような健康状態のため、美容師に復職するのは不可能となった。

(5) 膠原病性リューマチの疑いによる入院等

原告は、平成三年四月後半、三七度位の微熱が約一週間続き、解熱後は、全身に発疹が出現し、それがまた約一週間続き、その後は膝・股関節の疼痛が生じ、さらに指・手・肘・背・頸部・足の関節腫脹(レイノー現象)と疼痛が出現して動くことができなくなるという症状が生じた。原告は、右症状につき、平成三年四月下旬から同年六月まで、国立千葉病院に通院し、同年六月五日から同月二七日まで、市原整形外科に通院して、それぞれ鎮痛剤、湿布の処方を受ける等して一時症状の改善がみられたが、同年六月ころには、顔にも及ぶ腫脹が出現し、起立することができない状態となった。そのため、原告は、平成三年七月一日、東京警察病院を受診したところ、膠原病と診断され、同月一五日、同病院に入院することになった。

原告は、東京警察病院入院中、乳癌の摘出手術を受けた。

原告の東京警察病院入院中の主たる症状は、右半身の麻痺と、顎、左右の手首と指、左右の膝及び右足首の各関節の痛みであったが、これらについては、東京警察病院の医師からは、「様々な検査を行ったにも拘わらず、確信はできず、全経過を通じて、医学的な説明がなかなか困難であり、何らかの免疫不全状態をもって次から次へと病状が進んでいる感じがする」との説明を受けた。原告の膠原病は完治はしていなかったが、関節の痛みは弱くなってきており、入院して受けるべき積極的な治療もないとのことであったので、原告は、平成三年一一月一日、東京警察病院を退院し、通院治療を受けることになった。そして、原告は、同年一二月から、東京女子医科大学病院付属リューマチ痛風センターに月二回の割合で通院し、投薬治療を受けている。

原告の現在の症状は、運動機能として、歩行障害、水平位に両上肢を挙げることができない(痛みによる問題もある。)と握力低下があり、知覚面で、両手掌・手背・両膝・右足関節部に痛み、右半身(顔面を含む)に知覚鈍麻が存在し、身体障害者手帳(身体障害者等級表二級)の交付を受けている。そして、原告の生活状況は、食事は家族に用意して貰い、洗濯、物干し、洗髪にも家族の介助が必要といった状態で、ほとんど家族の介助を受けている。

(二) 以上の認定事実によれば、原告は本件注射直後から、それまでは存しなかった歩行障害等の運動制限が生じ、早い時期からしびれ感等の知覚異常や痛みが発現し、約一か月後からは、右半身の全体的な知覚異常と右上下肢の疼痛が顕著に出現し、それらが、歩行障害(特に右下肢)等の運動制限と共に退院時まで存続して随時介護を必要とする状態となっていたが、多摩分院入院時から同病院退院時まで行われたリハビリの結果、補助具を使用すれば数百メートルの歩行が行えるようになる等多少の改善がみられたものの、その他は基本的には変化がなく、右上下肢の知覚異常、筋力・握力低下及び随時介護を要する歩行障害の症状は、遅くとも同病院退院時である平成二年七月二一日の時点で、既に固定していたものと認めることができる(以下、右固定した症状を「本件後遺症」という。)。

そして、本件後遺症の内容、前記(一)(4)の症状固定時(退院時)の歩行能力、膠原病が発病する平成三年四月までの間の自宅療養中の具体的稼働(家事)状況(特に、歩行、右上下肢に相当程度の不自由を伴いながらも、休息をしながら、かつ、ゆっくりであれば家事もできていたこと)等にかんがみると、本件後遺症の程度は、原告の労働能力を八〇パーセント程度喪失させるもの(自賠責後遺障害等級にすると、五級二号(神経系統の機能又は精神に著しい障害を残し、特に軽易な労務以外の労務に服することができないもの)と評価するのが相当である。

2  本件後遺症と本件注射との因果関係の有無について

(一) 右1記載の経過によれば、原告は、本件注射以前には、本件後遺症の各症状を有しておらず、本件後遺症の各症状は、本件注射後に発生していることが認められる。

また、甲九、一四号証、乙二、二一号証、証人近藤、原・被告各本人尋問の結果によれば、被告が本件注射に使用した注射針は、いわゆる筋肉注射用の二三ゲージ針で、全部刺入した場合には、その二五ミリにわたる部分が体内に入るものであること、本件注射は、原告の前斜角筋筋腹の鎖骨から約二センチメートル上方の位置に行われていること、整書によれば、斜角筋間法では、注射針が内方(水平面)に進められたときには、椎間孔を通過し、局所麻酔薬が直接くも膜下腔に投与される場合があることが指摘されていること、原告の場合、本件注射の部位から二ないし2.5センチメートル程度の深さで、椎間孔、更にはその内側の硬膜、くも膜(脊髄を囲むもの)に達すること、局所麻酔剤であるキシロカインが頭に近い位置で脊髄内に侵入した場合には身体に重大な影響を及ぼす場合があること、近藤医師による頸椎MRI検査(平成七年七月三一日実施)の結果、原告の頸髄には、T2強調画像で、C2ないしC3、C5ないしC6に相当する頸髄の高信号域の部分がまだら状になっていて、脊髄になんらかの変性(加齢性でないもの)があることが予想されること、また、原告は、ロンベルグ兆候も陽性であったことが認められる。

このように、原告には、本件後遺症に連続する同種の症状が本件注射直後から出現して基本的に持続してきたという、本件注射と症状発生の時間的接着性に加えて、本件注射の部位と椎間孔、硬膜ないしくも膜の距離関係、注射針の長さ、局所麻酔剤が脊髄内に侵入した場合の効果等からすると、本件注射の注射針が原告の椎間孔を通過し、さらに硬膜、くも膜を貫通して脊髄腔内に至り、本件麻酔剤が脊髄内に侵入したことが原因となり、本件ショック症状が発生し、本件後遺症が発症したものと推認するのが合理的であり、したがって、本件後遺症は、本件注射により発生したものと認めるのが相当である。

被告は、本件注射後の原告の各症状は、アナフィラキシーショックである旨主張するが、右各症状の内容(その特徴は、歩行障害や知覚異常が出現したというもの)や持続の程度、原告が本件注射以前に歯科診療においてキシロカインの注射を受けても、アナフィラキシーショックやアレルギー反応を生じさせていなかったこと(甲八、原告本人)、被告は、本件注射の当日、原告の夫に対して、原告の症状は、多分血管か神経に針(注射針)が触れたためであろうと説明しており、アナフィラキシーショックという説明はしていないことなどの事実に照らすと、被告の右主張は採用できない。

なお、平成三年四月以降出現し現在も残っている症状、すなわち、両上肢の水平位挙上困難、両手掌・手背・両膝・右足関節部の痛み等の症状は、膠原病ないしリューマチに起因するものと認められるから、それまでの症状である本件後遺症とは明確に区別されるべきものであって、本件注射と相当因果関係にある後遺症とは認められない。そのため、本件注射と相当因果関係にある後遺症は、現在の原告の身体状況にも拘わらず、前記のように評価される本件後遺症の限度で認めることになる。

なお、後記(三)で判示するとおり、本件後遺症の症状には、原告の心因的要因も相当程度寄与しているものと認められるが、本件注射前は、原告は支障なく日常生活ができ、美容師としての仕事もできていたのであるから、本件注射がなければ原告の心因的要因は発現しなかったものと言うべく、原告の心因的要因の存在は、本件注射と本件後遺症との間の相当因果関係を否定するものではない。

(二) 本件後遺症とリューマチとの関係について

被告は、原告に生じている症状は、リューマチによるものであり、本件注射とは因果関係がない旨主張するが、本件後遺症は、原告に膠原病性のリューマチが発症したと認められる平成三年四月以前に発症し、平成二年七月二一日に固定したものであって、前記のとおり右リューマチ症状とは区別して認めることができるものであり、被告の右主張は失当である。

(三) 本件後遺症と心身症(転換ヒステリー)との関係について

(1) 甲九号証、一二号証から一四号証まで、乙八号証、一五号証から一七号証まで、二一号証及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

被告は、本件注射後の原告の症状の推移の原因につき、原告の被告医院入院の早い段階から精神病的反応を疑い、以下のように他院の診察を受けさせた。

① 被告は、船橋医療センターの服部医師宛てに、原告が、前斜角筋浸潤麻酔でショックを起こし、その後、経過良好であるが、起立時に軽いめまいで、歩行困難がみられている、入院にて経過観察中、諸検査に著変をみないが、三七度の微熱が持続し、内科医の往診で異常を認めなかった旨記載した紹介状をしたためた上で、平成二年三月二八日、検査のため船橋医療センター神経内科を受診させた。

原告は、同日午後二時三五分、救急車で船橋医療センターに搬送され、同日午後二時四〇分、同センターの服部医師が原告を診察したが、過換気症状がみられ、同医師は、原告を過呼吸症候群と診断した。原告は、右同日午後三時四五分、救急車で被告医院に向かった。

被告は、服部医師から、a原告の症状について、過呼吸症候群で気分不快、処置にて軽快、原因はヒステリーが疑われる、b抵抗に筋力を認めるが、力が入らない、c診療に協力が得られず、精神病の疑いがある、d微熱の原因不明で、内科の検索が必要、eブロックとの因果関係はないだろうとのコメントを受けた。

② 被告は、船橋医療センターの服部医師から、前項d記載のコメント受けていたことから、原告の微熱の原因を検査するため、千葉大病院の内科医師横須賀収(以下「横須賀医師」という。)宛てに原告の紹介状を作成し、平成二年四月三日、検査のため、原告に千葉大病院を受診させた。

横須賀医師は、新井医師に対し、原告を外来患者として紹介し、「原告が、三月一七日、胸郭出口症候群にて診療中、アナフィラキシーショックを起こし、入院したこと、以後、全体の力が入らず、時々フーッとしてしまうことなどがあること、ショック等による精神病的反応により前記症状が出てきているかとも思う」旨伝え、原告の診察を依頼した。

紹介を受けた新井医師は、原告を診察し、横須賀医師宛てに、「筋力は全体に四プラス程度で力が入らないと訴えている、他は表情乏しく動作がスローですぐに疲れた様子をみせる、病歴、現症を一元的に説明する器質的疾患は考えにくいと思う、精神病的反応を最も疑う」旨回答した。また、新井医師は、外来所見の臨床診断で、精神病的反応の疑いと述べ、被告に対して、平成二年四月三日付文書で、病歴、現症を一元的に説明する器質的疾患は考えにくいこと、本人には麻酔とは関係ない旨また、徐々に回復する旨を告げたことを伝えた。

また、横須賀医師は、被告宛て書面において、原告の症状を精神病的反応(過呼吸症候群)と診断し、理学的には著変がみられないこと、力が入らないことなどはショックによる精神病的反応のためかと思われるので一度精神科を受診することを勧めること、神経内科医師(新井医師)と相談したが、器質的な疾患は考えにくいとのことであったことを述べた。なお、原告は、千葉大病院で、心電図検査、血清検査、血液検査を受けた。

③ 被告は、平成二年四月二八日、そのころ生じていた視覚異常を検査するため、紹介により、原告に入江眼科病院を受診させたが、第三、一、1、(一)、(3)で認定したとおり、原告は、同病院の医師から、症状は精神的なものからきており回復は不可能と告げらた。

なお、原告は、平成二年四月二三日、被告の紹介を経ずに、検査のため、習志野病院を受診し、レントゲン検査を受け、翌二四日には、習志野第一病院において、頭蓋内の病変を検査するため、頭部MRI検査、CT検査を、同月二七日には、習志野病院において、習志野第一病院で行った検査を含めた検査結果についての説明を受けた。原告は、習志野病院の医師から、下部頚髄から腰骨髄までのMRI検査を受けることを勧められたため、被告に対し、右検査の実施を要請したが、被告は、右検査を実施しなかった。なお、習志野病院の細井医師は、被告に対して直接、平成二年四月二七日付文書により、下部頚髄から腰骨髄までのMRI検査を実施することを勧めている。

その後、原告は、被告が原告の症状について、早い時期から精神病的反応を疑い、本件注射後二か月が経過するも、何ら積極的な治療を施してこなかったとの不満と不信感を募らせ、平成二年五月一七日、被告医院を退院し、同日、本件注射の事実とその予後につき告げた上で、前記のように多摩分院を受診し、即日入院となった。同病院においては、院内で左記報告がなされた(乙一七)。

【身体機能面】

麻痺 上肢、手指共に分離運動可能。麻痺の影響はないものと思われる。ROM 肩関節の屈曲、外転、外旋の最終域において痛みを訴える外は、ノーマル

反射 深部腱反射は両側共にやや亢進、病的反射はマイナス

感覚 表在、深部感覚共にやや鈍麻、患側(右側)半分がオブラートを包んだ様な鈍さを感じるという。異常感覚が患側の上肢、下肢にあり特に手指のジンジンとしたしびれ感が強いという。最近はこのしびれ感が熱感に変わってきている。

筋力 患側上肢筋位筋に四+ 遠位筋四+

握力 右五キロから五キロ

左一八キロから一九キロ

簡易上肢能力テスト

右―73.3% 患側の筋力、巧緻性の低下を認める。

左―99.0%

その他 疲労感が増すと右目がチカチカしたり暗っぽいという。

ADL 病棟内のADLについてはほぼ自立している。

【精神機能面】MMPI(ミネソタ多人面的目録)の結果

神経症三尺度群の転換ヒステリー要素が強いと判断され心理的な要素が強いのではないかと思われる。訓練中においてもトランスファー時においても患側を使ったり使わなかったり、キャッチボール時においては最初のころは患側も使っているが、すぐに使わなくなったりするなどの行動がみられる。

【まとめ】歩行能力的には改善されてきているが、上肢の機能は今のところそれほど改善されていない状態である。現在の機能のアップを目標に支持的に接しながら訓練を行っていきたいと思う。予後などについては現在のところ判断がつかない状態であり、経過をみながら判断したい。

多摩分院の藤本医師から、被告宛てに、平成二年五月二一日付文書で、被告から、原告の発病と経過、諸検査所見を受領したこと、入院後数日しか経過していないが、入院後の多摩分院の諸検査でも特に右半身の症状に合致するような所見は得られなかったこと、藤本医師がみた範囲では、やはり神経学的所見として客観性のある所見は理学的にも検査上も得られていないこと、しかし、歩行障害があり、リハビリとして理学療法や作業療法を施行したいと考えていることが、また、同年一〇月一六日付文書で、多摩分院の診断が、a原因不明の右上下肢の筋力低下及び右顔面を含む右半身の異常知覚、b右胸郭出口症候群であること、aについて、被告から借りたMRIや多摩分院でのCTスキャンにおいても異常所見は認められないこと、また、理学的検査上、病的反射はなく、深部反射、深部知覚に異常はなく、いわゆる中枢及び抹消神経の器質的障害を示唆する所見が認められないこと、歩行はいわゆる片麻痺のパターンとは異なり、特に右足関節の筋力低下が目立ち、プロフッター装用で訓練したこと、入院当初は、立ち上がりやつかまり歩きも不能であったが、退院時は杖を持ち、屋外も数一〇〇メートルを歩行することが可能となったこと、握力は右が五キロから七キロに、左が一八キロから二〇キロに軽度改善したこと、bについては、右肩の挙上、外旋にて、撓骨動脈の拍動が消失し、疼痛を訴えるが、特に加療はしなかったことが報告された。

被告は、右認定の各医師のコメントや診断をもとに、原告にみられる症状は、心身症(転換ヒステリー)によるものであり、本件注射との因果関係は認められない旨主張する。

確かに、右認定事実によれば、前記被告の紹介により受診した①ないし③の病院や原告自ら転院した多摩分院では、いずれも、本件注射の事実及びその予後を知らされながら、それぞれの診療時の原告の症状につき心因性を指摘していることが窺われる。しかしながら、まず、船橋医療センターの服部医師の見解は、同センター受診時に原告にみられた過呼吸症候群の原因としてヒステリーが疑われるとしているに過ぎず、当時原告に現れていた症状がヒステリーによるものとまでは判断していないこと、また、千葉大病院及び多摩分院の各見解も、本来、精神病的反応または心身症との診断が、当該患者の生活状況、職業、家族状況等をも踏まえて総合的に判断してなされるべきものであるにも拘わらず何ら実質的な検査等を行わず、ただ、器質的障害を認めることができる異常所見が発見できなかったことをもって、精神病的反応または心身症を疑っているに過ぎないこと、しかも、右各病院においては、器質的な原因について検査を行ったとしても、頸椎部分のMRI検査等の精密検査を実施した上で判断した形跡はみられない(なお、習志野病院及び習志野第一病院においてはMRI検査が実施されているが、これらは専ら頭蓋内の病変の有無を調べるために実施されたものに過ぎない。)こと等に照らして考えると、右各病院の医師らの見解でもって、本件注射とその直後より原告に発生した症状との因果関係自体までに疑問を呈しているものとは認め難い。実際、本件注射直後から本件後遺症のもとになった症状が発生し持続してきたことは、前記認定のとおり厳然たる事実であって、原告の本件注射前の健康であった心身の状況と比較すると、本件注射に対する原告の心因反応のみによって右症状、ひいては本件後遺症が発生したものと考えるのは、極めて不合理である。むしろ、右各医師の見解は、いずれも、診療時の原告の症状が、本件注射のみによって通常発生する症状の程度、範囲を越えており、その原因として原告の精神面の問題を指摘するものと解することができる。

したがって、原告の心因的要因にのみによって、本件後遺症が発生したものとは認められないけれども、前記各医師の見解に加えて、本件注射時から本件後遺症の症状固定時までに原告に生じた症状の経過、すなわち、痛み、しびれ感等が本件注射の約一か月後に顕著になる等、症状に動揺が認められること、原告に平成二年四月中旬に生じた異常視覚も、被告医院から多摩分院への転院及び同病院での投薬を契機に消失していること等にかんがみると、原告の症状の増悪・遷延化、後遺障害の残存については原告の心因的要因が相当程度寄与しているものと認めるのが相当である。そして、右のような原告の症状の内容とその推移状況、本件後遺症の内容・程度、各医師が本件注射の事実及び予後を知りながら一様に指摘する原告の精神面の問題の存在(本件注射がなければ、原告の心因的要因も発現しなかったことも含む。)等を斟酌すると、本件後遺症発症に対する寄与度は、本件注射が一、原告の心因的要因が二と評価するのが相当であると思料される。そうすると、後に本件注射による損害額を定めるにあたっては、民法七二二条二項の過失相殺の規定を類推適用して、損害額の三分の二を減額することになる。

二  争点2(本件注射行為に関する過失の有無)について

1  治療方法の選択に関する過失について

(一) 胸郭出口症候群中の前斜角筋症候群の疑いとの診断について

甲九号証、乙一、八、二一号証、原・被告各本人尋問の結果、弁論の全趣旨によれば、原告は、被告医院を受診する一年くらい前に、自宅近くの八幡整形外科に、肩こり、頸の痛みの治療で受診したこと、同整形外科においては、主に、ホットパック(患部を温める)、マッサージによる治療を受け、一週間ほど通院したが、症状の改善はみられなかったこと、原告は被告医院を受診した際、被告の問診に対し、右経過を述べると共に、主な症状として一年前からの首、首筋の痛み、肩こりを訴え、悪いところとして首のつけ根と告げたこと、被告は、原告に対し、触診等の検査をしたが、肩にわたる項部痛があり、頚部の運動時に痛みが認められたこと、また、頭部圧迫テスト(頭頂部に圧迫を加え、頭部の前後左右屈における頭痛誘発テストで、首に疼痛が認められた場合には、頸椎関節障害、上肢に放散痛をみた場合には神経根刺激症状があることを意味するもの)、スパークリングテスト(頸椎部椎間孔圧迫試験であり、頸椎を一方へ側屈させた上で、頭の上から圧するもので、神経根の圧迫性障害がある場合には側屈した方の上肢へ疼痛あるいはしびれが放散するもの)、ジャクソンテスト(頸椎過伸展位にて頭頂部より体軸方向へ圧迫力を加えると肩甲帯上肢に放散する疼痛を発生するテストで、頸椎椎間板ヘルニア、変形性頸椎症を確認できるもの)を実施したが、これらはいずれも陰性であったこと、さらに、アドソンテスト(患者と向かい合って座り、両側の撓骨動脈を触知しながら患者に顔を患側に向けさせ、頸椎を後屈位にして深呼吸を行わせると、撓骨動脈の脈拍が弱くなるか、消失した場合には陽性とされるもの)、モーレーテスト(鎖骨上窩の斜角筋三角部の圧痛と上肢の放散痛が認められるもの)を実施したところ、いずれも左右ともに陽性となったこと、そのほか、腱反射、知覚を確認したところいずれも著変は認められなかったが、頸椎について二方向のエックス線撮影をしたところ、第五、第六頸椎椎間孔に軽度の狭窄化が認められたこと、被告は、右諸検査、特に触診、アドソンテスト、モーレーテストの結果から、原告の症状について、胸郭出口症候群中の斜角筋症候群を疑ったことが認められる。そして、さらに、右各証拠によれば、胸郭出口症候群は、上肢を支配する腕神経叢及び鎖骨下動静脈を含む神経血管束が前中斜角筋、第一肋骨、鎖骨、小胸筋で囲まれた胸郭出口部において圧迫、絞扼を受けるものであり、手指、前腕、ときには肩に至る異常知覚、痛み、しびれ感を訴え、肩こり、肩甲部痛、頭痛などもよく訴えられる症状であること、胸郭出口症候群中の斜角筋症候群は、異常な運動、姿勢、ストレス、外傷、頸椎症、椎間板疾患、頸肋などを誘因として、前斜角筋がスパスム(痙攣、発作)を起こすものであり、被告が実施しているアドソンテスト、モーレーテストが有効な判別テストとなっていることが認められ(乙二)、原告は、被告医院における診察時において、被告に対し、肩こりを訴え、右ハドソンテスト、モーレーテストはいずれも陽性になっていたのであるから、被告が原告の症状について胸郭出口症候群中の前斜角筋症候群の疑いと診断したことが誤りであったとは認められない。

(二) 治療方法として本件注射を選択したことについて

原告の被告医院での受診は、前記認定のとおり、長男のリハビリの待ち時間があったので、便宜、肩こり等について診察を受けたというものであり、その治療には緊急性もなく、初診時から直ちにアナフィラキシーショックの危険性があり、かつ、注射の仕方によっては重大な結果を招きかねない(証人近藤)本件注射を実施することは、いかにも唐突の感が否めない(乙一号証によれば、原告はアレルギー、薬の副作用があると答えていることが認められる。)し、原告が本件注射を受けるに際してその必要性と危険性について十分な説明がなされたかどうかも疑問なしとしない。

しかし、乙二号証によれば、斜角筋症候群において、前斜角筋へのスパスムの関与が大きい場合には、前斜角筋への局麻剤(局所麻酔剤)の注入により、症状が軽快すること、近藤医師の証言によれば、同医師自身は、基本的には固定が重要との考えから痛み止めのためのブロック注射という方法は、必要ないと考えているが、前斜角筋にキシロカインを注射する方法があり、それが有効なことがあることが認められること、また、原告は、被告医院以外に整形外科を受診し、そこでホットパック療法やマッサージ療法を受けていたが、効果を上げられなかった経緯があったこと等からいって、被告が原告の症状の治療方法として本件注射を選択したこと自体に過失があったとまでは認めることができない。

2  注射の技法に関する過失について

甲二、一五、一六号証、乙二号証、証人近藤の証言、被告本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、被告が原告の肩こりの治療として選択した本件注射は、その周辺に頸神経叢、交感神経の神経節、動脈及び静脈などが集中している前斜角筋に行う浸潤注射であり、椎間孔への侵入も指摘されているような危険な注射であることが認められることからいって、その実施に当たっては、神経や血管を毀損しないようにすることはもとより、椎間孔に注射針を侵入させ、脊髄腔内に局所麻酔剤を侵入させないようにすべき注意義務があるといえるが、被告はこれを怠り、前記認定のとおり、本件注射において注射針を椎間孔を通過させ、さらに脊髄腔内に侵入させて、本件麻酔剤を脊髄に侵入させ、もって本件後遺症を生じさせたものであって、原告には注射の技法に関する過失がある。

三  争点3(被告が被った損害の有無及びその程度)について(計算額については円未満を切り捨てる。)

1  逸失利益 三三三七万五三一九円

前記一1(二)によれば、原告は、本件後遺症の症状固定時に三九歳であり、就労可能年齢六七歳までの間を通じて、特段の事情がない限り八〇パーセント程度の割合による労働能力を喪失したことになる。そこで、原告(本件注射前は美容師兼主婦)の得べかりし収入につき、平成二年度の賃金センサス第一巻第一表の企業規模計学歴計の女子労働者全年齢平均年収額二八〇万〇三〇〇円、就労可能年数である二八年に対応するライプニッツ係数14.8981を用いて計算すると、原告の逸失利益は、次のとおり三三三七万五三一九円となる。

280万0300円×0.8×14.8981=3337万5319円

2  後遺症慰藉料 一二〇〇万円

本件後遺症の具体的症状の内容・程度、原告の年齢、家族状況等、本件に現われた一切の事情を斟酌すると、原告の後遺症慰藉料は一二〇〇万円とするのが相当である。

3  寄与度減額と弁護士費用

そこで、前記1及び2の損害合計四五三七万五三一九円から原告の心因的要因の寄与度である三分の二を減じると、被告に賠償させるべき損害額は、一五一二万五一〇六円となる。そして、本件訴訟の内容、審理経過、認容損害額等を考慮すると、被告に賠償させるべき弁護士費用は一五〇万円と認めるのが相当である。

四  結語

以上によれば、原告の被告に対する請求は、不法行為に基づく損害賠償請求として、一六六二万五一〇六円及び内金一五一二万五一〇六円に対する不法行為の日の翌日である平成二年三月一七日から、内金一五〇万円に対する本件訴状送達の日の翌日である平成九年四月二六日から各支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を求める限度で理由があるから、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官福田剛久 裁判官徳岡由美子 裁判官廣田泰士)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例